偽称天才作曲家「佐村河内守」氏と話して思うこと~PART1~

随分と久しぶりの更新になってしまいましたが、制作は日々続けています!
プロフィールを更新したので、良ければチェックして下さい!

本記事は音楽制作と全く関係ない内容になりますので
興味がある人だけ読んで頂ければと思います。

先日荷物の整理をしていたら、とても懐かしいCDが出てきました。

それは、かつて「現代のベートーヴェン」と呼ばれていた
全聾の天才作曲家「佐村河内守」氏からもらったデモテープ集です。

自分は佐村河内さんとメールや年賀状などを送っていた時期があり、
佐村河内さんもまた丁寧に返信をしてくれていました。

当時高校、大学生だった自分にとって佐村河内さんは憧れの人であり
目標となるような作曲家でした。

さる2014年2月5日に、桐朋音楽大学の非常勤講師だった「新垣隆」さんが
ゴーストライターとして佐村河内さんの代わりに曲を書いていたと発表し、
それを知った自分は相当ショックを受けました。

毎年この時期になるとそのことを思い出すので、
作編曲の技術とは関係ないですが……せっかくなら
この出来事を書いてまとめてみようかと思い筆を取ることに致しました!

彼のやっていたことは褒められるものではないけれど、
今の音楽家にとって大切な事がたくさんあったと思います。

今回は佐村河内さんとの出会いについて書いていきます。


佐村河内さんと出会ったきっかけ

佐村河内さんの名前を知ったのは高校の部活で
広島の原爆被害者に向けたレクイエムを歌うという
企画を知らされたときでした。

自分は当時高校3年で、部活の音楽リーダーを務める立場にあり
部員と頑張って練習していた記憶があります。

その後、初めて佐村河内さんと会ったのは
確か音楽大学の講堂だったと思います。

そこでの佐村河内さんは皆が知っている、
黒尽くめの服と帽子を被り、黒いサングラスをかけた
重たいオーラを放つ人物でした。

耳が聞こえないことは既に知っていたので、
佐村河内さんは練習を見に来たのではなく
テレビの取材の為に来ていたのだと思っていました。

そこで一瞬だけですが、佐村河内さんと話しをしたことを覚えています。
何を話したかは覚えてませんが……

レクイエム終演後、連絡先を貰う

確か5月に、原爆ドームを前に自分の高校と
小、中学生達と共にレクイエムを演奏しました。

演奏終了後、佐村河内さんは自分達に対して
こんなことが2度あってはいけない、そして忘れてはいけない……
そんな話をしてくれた記憶があります。

テレビ局の方が今の心境について訊いてきましたが、
自分は佐村河内さんの話と今回の経験について思うことがあり
適当なことを言っていたかと思います。
(ネットにもし映像が残っていたら消してくれ……)

平和についての意識もそうですが、
何より音楽で多くの人に力を与えられたり
もしくは押さえ込んでいた負の重圧を解き放てる……
音楽の救いの力って凄いんだと実感した瞬間でした。

作曲家として生きて行きたいと強く考えたのは
その経験があったからだと今になって思います。

収録終了後、佐村河内さんにお礼を言いに一人走っていきました。

手話通訳の人が居ないのにどうやって伝えようか迷っていたところへ

「ゆっくり話したら唇の動きで分かる」

と佐村河内さんに言われ、お礼の他に連絡先を教えて欲しいと言ったのかもしれません。

住所と電話番号、そしてメールアドレスが書かれた
名刺代わりの紙をその時に貰いました。

それから2014年1月下旬まで、メールや年賀状を交換したりするようになります。

その後1,2ヶ月ほどで手紙と未公開音源が収録されたCDが届きました。

内容は「交響曲第1番」の第1楽章、鬼武者の「交響組曲ライジング・サン」の収録音源、
そして「子供のためのピアノ小品」とレクイエムのMIDI音源でした。

特に上記2曲はどうしたらあんな音になるのか全然分からず、
音楽の勉強をしていつかライジング・サンみたいな曲を書くんだと
意気込んでいたのは良い思い出ですね……


今回は一旦ここで終わりにして、
次の記事で交響曲第1番の広島公演に行った時と
新垣さんがゴーストライターと発表されるまでについて
書いていきたいと思います。

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